人生の目的は?”人間の生きる意味は自ら選びとるのだ”ということをサルトルに学ぶ
最近、自分の人生の目的について考えることが多い
小〜高校の頃はスポーツ(バスケット)に打ち込んできたことから何も考えずに生きてきました。そこではとにかく日々の努力による成長を感じることができたので楽しかったです。だから大学でも、スポーツをやろうと思いガチの部活に入部をしたが浪人をしたことにより体が使えなくなっており怪我をしたからばっくれた。そこでスポーツの代わりになる打ち込むべきものを探すために、目的もなしに東南アジアを中心にバックパッカーをしました(学生あるあるですね)。その後は、国内外で就活を意識したインターンや資格の取得をしようとさらに学生あるあるをすること考えたてました。
ところが、ところが!大学3年時に私の人生を変えるとある出来事が起きるんです。それは、大学のゼミで書いた経済学に関する論文です。きっかけは東南アジアで海外での格差や貧困を目の当たりにしたことで、それらに対してなにか学術的に解決できる手段はないのかと考えたことにあります。普通はそこで開発経済学を勉強してボランティア活動等を行うのが一般的。そうすると就活にも使えるだろうし。だが私は、ボランティアでは世の中を変えることはできないと考えていたんです。実際に、偶然その頃に観た『僕たちは世界を変えることができない』という映画でもボランティア活動では世界を変えることができないということを証明していたのです。もちろんボランティア活動が全くもって無駄だということはないと思います。私のように考えるだけで実際の行動をしない人よりは、ボランティア活動をする人のほうが遥かにマシですね!
ただ私は違うと思ったのでその一年間は沢山の本を読み、人生で初めて主体的に勉強をして楽しい期間を過ごしたのです。大学に入る前までは活字を読むことは苦痛でしなかったんですが、浪人時代に現代文を少し頑張ったことがここで活きました。具体的には、マルクスの『資本論』に基づいて現代の経済に関する本を読みました。特にマルクスの搾取論や資本主義の仕組みそのものを学ぶと就活がバカバカしくなるんです。実際に私の大好きな教授は「知らぬが仏ということを実感したでしょ」と笑う。私はそれを知ったことでどれだけ人生に悩むことになったのか。。。その内容の詳細については絶対に誰もが役に立つと思うので後日、ブログに書きたいと思うので読んでほしいですね!
ではそもそもなぜこのブログを書こうと思ったのか。それは、自分の人生の意味を考えたからです。自分の人生はなんのためにあるのか、目的は何であるか。これまで部活をしていた際は、「シュートの成功確率を上げる」や「体を強くする」などの目的が明確に存在していました。勉強に関しても高得点を取るという目的が存在していました(まぁ勉強に関しては目的があったけれど頑張りませんでしたけどね、笑)。会社にもより良い会社に入ることが一番理にかなっていると思っていました。ところが、大学の学問や自分の人生は答えが明確ではない問に挑まなくてはならないのです。
特に自分の人生の目的には悩みに悩みましたね。行動ベースより思考ベースで考えがちなので。じゃあ行動すればいいだけの話なのですが、一度きりの人生だからと考えてより考え込んでしまう。ただ、自分で考え込んでいても明確な結論は出てこないので他の手段を考えました。そこでこれらを哲学に求めました。まずは適当に入門書を買ったのですが、結構難しかったので動画で簡単な概要を掴んでから本を読もうと思いました。そこでNHKの教養番組である『100分de名著』という番組に出会いました。これを観てから本を読むとと全体像を理解しているからスムーズに本を理解することができるので非常におすすめです。ただ、動画は観るだけだと忘れてしまうのでそれをしっかりとまとめて整理することによって、また振り返ったときにすぐに理解できるようにとブログを作りました。このブログではただ単に知識の整理をするのではなく、より実践的に役立つようにまとめていきたいと思います。
人間は自由の刑に処されている
今回は『100分de名著』のサルトルについてまとめていきたいと思います。
サルトルとは、
ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトル(フランス語: Jean-Paul Charles Aymard Sartre、1905年6月21日 - 1980年4月15日)は、フランスの哲学者、小説家、劇作家。内縁の妻はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。右目に強度の斜視があり、1973年にはそれまで読み書きに使っていた左目を失明した。自分の意志でノーベル賞を拒否した最初の人物である。
参考:wikipedia
→徹底的に「人間中心」と「自由」の考え方を貫いた知の巨人です。
『実存主義とは何か』が有名な本で、実存主義という考えを提唱した人物です。
では実存主義とは何なのか?
簡潔に言うと、
実存主義→実存は本質に先立つ
ということです。
具体例で考えてみましょう。
<ペーパーナイフの場合>
→本質(紙を切るという)が実存に先行している
<人間の場合>
→実存が本質に先行している
=自ら本質を選択して未来を作らなくてはならない
つまり、人間は実存(存在)が先にあるのでナイフなどの物とは異なり、本質(意味や目的)がそもそも存在しないのです。
つまり、そもそも人間の生きる意味はなんなのか、ということを表しているんです。
これはこれは丁度、私が人生に悩んでいることと同じです。
このことはサルトルの『嘔吐』という小説でも表現されています。
これは主人公ロカンタンによる実存の発見物語です。
彼は仕事をせず遺産で暮らして図書館とカフェを往復するだけの自由な生活をしていたところ、この生活に対して吐き気を感じるようになる。
この 「吐き気」が意味をするものは?
→我々の存在は必然的ではなく偶然的に存在しているものであり意味がないという比喩ですね。
そこから生きる理由は、無意味で不条理なものであると結論します。
つまり、我々は「何ものでもない生を生きる」ということになるのです。
これは「人間とは~である」という必然的な考え方を疑うことを意味しています。
現実の例ですと「大学は行くものだ」「会社に就職して働くものだ」「結婚して子供は生むものだ」というのは必然的な存在であるからおかしいと、サルトルは主張するのです。
『嘔吐』のなかでは女優の例えがでてきます。女優はセリフが決まっているから必然的な時間を生きている→自由という不安から目を背けるために必然的な存在であろうと振る舞っている、と表現しています。
そこから、
あの有名な「人間は自由の刑に処されている」という実存主義のテーゼ(命題)
が打ち立てられます。
人間の生きる意味は自ら選びとるのだ
ではそのように人間は自由の刑に処せられている状態、つまり完全に自由で目的のない人間はどうなるのでしょうか?
→不安になります。
これは、学校や会社という組織に属していることをイメージするとわかりやすいです。学校や会社では、勉強や仕事という目的が存在しますね。ところが、それらに属さないで決まりきった道がなく、自由そのものである私を想像してみると、不安にならないでしょうか?学校や仕事は少なからず私達の人生に目的を与えてくれますが、それがないとただ同じ毎日を過ごすことで不安を感じるでしょう。ちなみに中世ヨーロッパではキリスト教の存在がそれに当たりました。
つまり、
必然的な存在(組織に所属)→偶然的な存在(自由)
になると誰もが不安を感じるということです。
ただ、だからといって自身の将来について悲観的になってはいけません。そこでサルトルはこのような状態に有るからこそ我々は、
「人間は自らの決断によって人生を作り上げていかなければならない」、
「人間の生きる意味は自ら選びとるのだ」
と主張します。
またサルトルは実際に、
「実存の社会からは逃れられないが、小説や音楽等の創作を通じて必然的な存在にはなれないが創作することによって自分で人生の意味を創っていく」
ことで乗り越えるのだと主張します。
→自分探し(過去)ではなく自分のあり方(未来)を探すことを示唆しているのです。
<サルトルの自身の生き方>
- 偶然の恋を楽しんでいた
- ノーベル文学賞を辞退
- 家や財産を所有しない(小さな家、本は他人にあげる)
- お金に無頓着(亡命者にあげる)
→物や制度にとらわれない生き方を貫いたのです。
つまり、私達は他人と比較するのではなく、孤立を恐れずに自分の生き方を模索するべきなのです。
地獄とは他人のことだ
またサルトルは、誰しもが他人からまなざしを受けることで自分という存在を規定されると主張します。
サルトルはこれを
「対人関係とはまなざしの戦いである」
と表現します。
これはどいういうことかというと、
- 自分は世界(世の中)にまなざしを向けて、自分独自の世界を作るor持つ
- ところが他人が出てくると自分の世界が他人によって盗まれるor規定される
- つまり、対他存在となってしまう(=”眼差しの相克(決闘)”)
- そして自分が存在の危機に陥る
という具合になるのです。
*まなざしを向けられること=他有化
→自分が自分のものではなく他人のものになってしまうこと
*まなざし=自由の受難、人間の条件(避けることができない)
では自分が存在の危機に陥った際にどうすればいいのか?
サルトルは、
「さらば、下種どもよ」(なんだこのろくでなしといったニュアンス)
といって社会を去れと主張します。
なんとも強引的ですね、笑
これだけ自分らしく生きていきていけということですね。
泥棒の例;
自分は泥棒であるとレッテルを貼られる
→規定されることと決意(行動)することとの間に若干のズレがある
=そのズレにこそ自由がある
また、サルトルはまなざしの問題は抑圧や差別の問題を生むと考えます。
それに対抗するには、まなざしを意識する必要があるのです。
例えば、資本主義社会では労働者と資本家の対立は常に存在する。(低賃金・重労働)
→そこで自分が労働者であり搾取されていることを自覚する
→それを自分のみならず周囲に自覚させることによって弱者の連帯を成り立たせ社会の進歩を目指す
アンガジュマンせよ
このようにサルトルは 、まなざしの存在を意識してそれに対抗しなくてはならないと主張します。このことを「アンガジュマン」と表現します。
「アンガジュマン」とは、
①自分を拘束すること
②自分を巻き込むこと
③自分を参加させること
つまり、サルトルは傍観主義を否定してアンガジュマンを勧めるのです。
→特に言論に関わる人間は社会に対して意見を表明しなくてはならない
=傍観したら他人の意見を認めるということ
→実際にサルトルはあらゆることに意見を述べてそれを世界中が注目していた
現代社会でどのように生きていくかという態度表明をしていくことが重要
例;原発問題に対してどのような姿勢を取るか
結論: 人間はどんな絶望の社会でも生きていかなくてはならない
サルトルの最後は希望の哲学を語ります。
”人間の運命は、人間の手中にある”
よって人間はどんな絶望の社会でも生きていかなくてはならない。
つまり、何らかの希望を未来に持たなくては生きていくことができない。
これらを投企と表現しました。
投企;自分を前に投げる
→未来に自分の存在を投げ入れて自分の人生を作っていく
例;結婚
”人生は、それに意味を与えようとするれば意味がある。まず行動し、何らかの企ての中に身を投じすべし。しかる後に反省すればすでに賽(さい)は投げられており、人は束縛(アンガジェ)されている”『嘔吐』
”人間は主体的にみずからを生きる投企なのである”『実存主義とはなにか』
・サルトルの姿勢
”認識”においては悲観的
”意思”においては楽観的
まとめると、
実存主義によりこの世に生きる意味や目的などない
→つまり人間は偶然的で自由な存在である
→ところが他人の眼差しによって勝手に生きる目的や意味を規定されかねない
+いくら意味や目的がない人生でも生きいかなければならない
→傍観主義的になんとなく社会で生活をする人が大多数でありそれではいけない
→アンガジュマンをして社会に対して自分の態度を表明すべき
→人間は自らを主体的に生きる投企である
ということですね。
哲学者サルトルがこのように言っているのだから、人生の目的なんて考えるだけ時間が無駄だと感じられさせますね。実際に将来何が起こるかなんてわかりませんし。特に人の出会いは大きく人生の意味や目的に影響してくると思うので、そのような不確定要素を今から予測することをできるとは思いません。だから、自分の価値観というものを持って自分らしく生きていきたいと思います。加えて、このブログを通じて多くの人とコミュニティを築いて多くの人に出会いお互いに生き方をみつけていくことができたらいいなと思います!コメントお待ちしております!以上、記念すべき初ブログでした!