たくみの人生ノート

哲学・経済学に基づいて自分探しではなく自分のあり方を考えていくブログ

人類が目指すべき究極な社会など存在しない レヴィ・ストロース

本日は、HNKの『100分で名著』をもとにレヴィ・ストロース構造主義と野生の思考についてまとめていきたいと思います。

 

人類が目指すべき真実など存在する?

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ヘーゲルや前回のブログでまとめたサルトルの哲学とは、人類は歴史を通じて究極の真理を目指していくということでした。実際に、サルトルの「人間は自由の刑に処せられている」という考え方は、だからこそ人間は自ら決断をして主体的に生きていく必要があると主張。

 

ところが、本来人類学者で哲学者であるレヴィ・ストロース はこれらの主張に疑問を投げかけます。

 

「人類が目指すべき真理など本当にあるのか?」

「歴史は常に真理を目指すのか?」

 

これらはレヴィ・ストロース が人類学者として西洋文化の影響を受けていない未開の地での経験から来ています。レヴィ・ストロース 実際に未開の地での生活を経験して、未開の地とは全く西洋に遅れた社会ではなく、ただ独自の文化を持っているのだと結論づけました。

 

そしてレヴィ・ストロース は、

 

「歴史は一つの真理に向かっていくとのような歴史とは結局、西洋側が勝手に定めたものである。そうではなくて国や地域によって様々な価値観や文化が存在するのであるから、人類が目指すべき究極の社会(真理)など存在しない」

 

と主張しました。

 

これは当時の西洋中心の哲学の世界に大きな衝撃を与えたんですね。

 

 

レヴィ・ストロースの人物像について

 

クロード・レヴィ=ストロース(Claude Lévi-Strauss、1908年11月28日 - 2009年10月30日)は、フランス社会人類学者民族学者。出身はベルギーの首都ブリュッセルコレージュ・ド・フランス社会人類学講座を1984年まで担当し、アメリカ先住民の神話研究を中心に研究を行った。アカデミー・フランセーズ会員。

専門分野である人類学、神話学における評価もさることながら、一般的な意味における構造主義の祖とされ、彼の影響を受けた人類学以外の一連の研究者たち、ジャック・ラカンミシェル・フーコーロラン・バルトルイ・アルチュセールらとともに、1960年代から1980年代にかけて、現代思想としての構造主義を担った中心人物のひとり。

参考:wikipedia

 

 

人間の思考には野生状態がある

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また、レヴィ・ストロースは、先住民たちの習俗や儀礼、神話は西洋側が言うように未開的なものではなく極めて論理的な思考に基づいていること経験します。このことを野生の思考と表現しました。

 

・人間の思考には野生状態がある

野生状態とは?

→近代の効率や計画などにゆがめられたり、押さえつけられたりしない思考能力

 

・人類は普遍的な思考能力を持っている

西洋文化がアジアやアフリカの文化と比べて進んでいるわけではない、むしろ豊かな人間性を備えていると主張

→未開社会でも人間は知性によって文化を形成

 

 

<欧米は歴史の枠組みで考える>

→歴史は発展・進歩すると考える

ところが近代以前の歴史のない社会は発展や歴史という考え型がそもそも存在しなかったから、このような歴史の枠組みで考えること自体が最近できたものである。

 

<未開社会は構造という枠組みで考える>

構造とは?

→自然界の秩序と人間の思考の秩序は本質的に同じではないか

 

欧米は自然と人間を分割する

本来は人間と植物には同一の構造があると主張

 

<構造言語学

・発信者と受信者が共通のコードをもとにメッセージを理解する

=コミュニケーションの基本

 

・すべての音から取り出した母音や試飲などの音素は互いに相関・対立

→音素を組みわせることで言語を作る

 

人間の文化では音韻のレベルと同じ構造なのではないか?

=あらゆる可能性の中から要素を取り出して組み合わせて文化を作る

→文化の要素と自然的な要素が一体になって文化のシステムを作るのが「野生の思考」

例;自然→少数要素→構造→文化

 

・トーテミズム

→人間と自然との間にはつながりがある

=世界を分類し体系化する高度な思考方法

→自然の世界の分類と人間の世界の分類のたいを有漢駅を作ると秩序が作られる

トーテミズムはデータベースの体型情報処理検索と変わらない

 

・ブリコラージュ

→日曜大工のこと、

ありあわせの道具や材料を用いて自分の手でフレキシブルに物を作ること

→未開社会・野性的な特徴的な思考方法

 

 

・現代の科学的思考と比較して考えると

 

<科学的思考>

→概念を用いる

=計画に即して既成品を使って技術者が作る(平均的)

 

<ブリコラージュ>

→記号を用いる

=ありあわせの道具や材料を用いて自分の手でフレキシブルに作ること(真新しい)

 

→科学的思考は面白みや新たな発見がなくてつまらないものである

 

・呪術と科学の違い

→それほど大きな違いはない、どちらが正しいとかはない

→実際に呪術が元になって科学ができた

 

・現代が科学的思考に支配されている理由

→農業革命で生産性が上昇→人口増加→都市の形成(中世)

 

近代は科学的な思考方によらなければ、人間の社会自体をつなげていくことができないと考える

→野生の思考の要素を社会の中にもう一回取り組まなければならない

 

・野生の思考がIT社会にも必要

コンピューターにおける最大の機能である情報検索は、「野生の思考」が自然界に向かって分類を行っていたシステムとほとんど同じ

実際に個々の内容には立ち入らない、イデオロギーとは関係なく分類をするだけ

→野生の思考が復活する

つまり、あるコードに従って分類し、それを組み合わせて知の世界を作っていく

+科学者たちが最新の発見をシェアリングし始めた=贈与

→研究者共同体に向かって知財を贈与し、別の共同体の科学者が知恵を受け取って知財を流す

そしてこの情報の循環と拡大によって科学的な知識が拡大し、素粒子の世界や遺伝子のゲノム解析が進んだ

このような過渡的な状態を先に勧めたときにできる世界は「野生の思考」の世界に近い

リユース、シェアリングなど経済格差をなくそうとする動きが見られる

→それらを組織化することが重要

→そのときに「野生の思考」という考え方が重要

→経済や生物、数学等の世界で起きてることは本質的には全て同じ

 

 

<プラクシス(実践)>

行為する人間が自分自身の目的のために事物を使用する

 

<ポイエーシス(作り出す、職人や芸術家)>

ある事物を自分の目的のために変形して使うのではなく、その物のなかに既に存在する形を外に取り出す=野生の思考に基づく

→労働の源泉を苦痛から喜びに変えたかった

 

近代の考えでは、キリスト教によって、人間は原罪を抱えた存在である

→資本主義社会でも労働は苦痛であると認知されている

→未開社会の人からしたらおかしい

 

日本人は自然の人間化がうまい

→科学発展しているのにもかかわらずと野生の思考とが併存している

例;山里風景

 

ディビジョニズム(分割主義)

効率にこだわらないで自然の人間化を表している

例;築地の魚の並べ方、日本料理の刺し身はそのまま切っただけで混ぜ合わせない

 

 

日本の人々が過去の伝統と現代の革新の間の得がたい近郊をいつまでも保ち続けられるよう願わずに入られません。それは日本人自身のためだけにではありません。人類の全てが、学ぶに値する一例をそこに見出すからです。

レヴィ・ストロース

 

 

 

 

 

人生の目的は?”人間の生きる意味は自ら選びとるのだ”ということをサルトルに学ぶ

最近、自分の人生の目的について考えることが多い

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 小〜高校の頃はスポーツ(バスケット)に打ち込んできたことから何も考えずに生きてきました。そこではとにかく日々の努力による成長を感じることができたので楽しかったです。だから大学でも、スポーツをやろうと思いガチの部活に入部をしたが浪人をしたことにより体が使えなくなっており怪我をしたからばっくれた。そこでスポーツの代わりになる打ち込むべきものを探すために、目的もなしに東南アジアを中心にバックパッカーをしました(学生あるあるですね)。その後は、国内外で就活を意識したインターンや資格の取得をしようとさらに学生あるあるをすること考えたてました。

 

 ところが、ところが!大学3年時に私の人生を変えるとある出来事が起きるんです。それは、大学のゼミで書いた経済学に関する論文です。きっかけは東南アジアで海外での格差や貧困を目の当たりにしたことで、それらに対してなにか学術的に解決できる手段はないのかと考えたことにあります。普通はそこで開発経済学を勉強してボランティア活動等を行うのが一般的。そうすると就活にも使えるだろうし。だが私は、ボランティアでは世の中を変えることはできないと考えていたんです。実際に、偶然その頃に観た『僕たちは世界を変えることができない』という映画でもボランティア活動では世界を変えることができないということを証明していたのです。もちろんボランティア活動が全くもって無駄だということはないと思います。私のように考えるだけで実際の行動をしない人よりは、ボランティア活動をする人のほうが遥かにマシですね!

 

 ただ私は違うと思ったのでその一年間は沢山の本を読み、人生で初めて主体的に勉強をして楽しい期間を過ごしたのです。大学に入る前までは活字を読むことは苦痛でしなかったんですが、浪人時代に現代文を少し頑張ったことがここで活きました。具体的には、マルクスの『資本論』に基づいて現代の経済に関する本を読みました。特にマルクスの搾取論や資本主義の仕組みそのものを学ぶと就活がバカバカしくなるんです。実際に私の大好きな教授は「知らぬが仏ということを実感したでしょ」と笑う。私はそれを知ったことでどれだけ人生に悩むことになったのか。。。その内容の詳細については絶対に誰もが役に立つと思うので後日、ブログに書きたいと思うので読んでほしいですね!

 

 ではそもそもなぜこのブログを書こうと思ったのか。それは、自分の人生の意味を考えたからです。自分の人生はなんのためにあるのか、目的は何であるか。これまで部活をしていた際は、「シュートの成功確率を上げる」や「体を強くする」などの目的が明確に存在していました。勉強に関しても高得点を取るという目的が存在していました(まぁ勉強に関しては目的があったけれど頑張りませんでしたけどね、笑)。会社にもより良い会社に入ることが一番理にかなっていると思っていました。ところが、大学の学問や自分の人生は答えが明確ではない問に挑まなくてはならないのです。

 

 特に自分の人生の目的には悩みに悩みましたね。行動ベースより思考ベースで考えがちなので。じゃあ行動すればいいだけの話なのですが、一度きりの人生だからと考えてより考え込んでしまう。ただ、自分で考え込んでいても明確な結論は出てこないので他の手段を考えました。そこでこれらを哲学に求めました。まずは適当に入門書を買ったのですが、結構難しかったので動画で簡単な概要を掴んでから本を読もうと思いました。そこでNHKの教養番組である『100de名著』という番組に出会いました。これを観てから本を読むとと全体像を理解しているからスムーズに本を理解することができるので非常におすすめです。ただ、動画は観るだけだと忘れてしまうのでそれをしっかりとまとめて整理することによって、また振り返ったときにすぐに理解できるようにとブログを作りました。このブログではただ単に知識の整理をするのではなく、より実践的に役立つようにまとめていきたいと思います。

 

 人間は自由の刑に処されている

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今回は『100de名著』のサルトルについてまとめていきたいと思います。

 

 

サルトルとは、

 

ジャン=ポール・シャルル・エマール・サルトルフランス語Jean-Paul Charles Aymard Sartre1905年6月21日 - 1980年4月15日)は、フランス哲学者小説家劇作家。内縁の妻はシモーヌ・ド・ボーヴォワール。右目に強度の斜視があり、1973年にはそれまで読み書きに使っていた左目を失明した。自分の意志でノーベル賞を拒否した最初の人物である。

参考:wikipedia

 

徹底的に「人間中心」と「自由」の考え方を貫いた知の巨人です。

実存主義とは何か』が有名な本で、実存主義という考えを提唱した人物です。

 

 では実存主義とは何なのか?

 

簡潔に言うと、

 

実存主義→実存は本質に先立つ

 

ということです。 

 

 具体例で考えてみましょう。

 

 <ペーパーナイフの場合>

→本質(紙を切るという)が実存に先行している

 

<人間の場合>

実存が本質に先行している

=自ら本質を選択して未来を作らなくてはならない

 

つまり、人間は実存(存在)が先にあるのでナイフなどの物とは異なり、本質(意味や目的)がそもそも存在しないのです。

つまり、そもそも人間の生きる意味はなんなのか、ということを表しているんです。

これはこれは丁度、私が人生に悩んでいることと同じです。

 

このことはサルトルの『嘔吐』という小説でも表現されています。

これは主人公ロカンタンによる実存の発見物語です。

彼は仕事をせず遺産で暮らして図書館とカフェを往復するだけの自由な生活をしていたところ、この生活に対して吐き気を感じるようになる。

この 「吐き気」が意味をするものは?

我々の存在は必然的ではなく偶然的に存在しているものであり意味がないという比喩ですね。

そこから生きる理由は、無意味で不条理なものであると結論します。

 

つまり、我々は「何ものでもない生を生きる」ということになるのです。

 

これは「人間とは~である」という必然的な考え方を疑うことを意味しています。

現実の例ですと「大学は行くものだ」「会社に就職して働くものだ」「結婚して子供は生むものだ」というのは必然的な存在であるからおかしいと、サルトルは主張するのです。

 

『嘔吐』のなかでは女優の例えがでてきます。女優はセリフが決まっているから必然的な時間を生きている自由という不安から目を背けるために必然的な存在であろうと振る舞っている、と表現しています。

 

そこから、

 

あの有名な「人間は自由の刑に処されている」という実存主義のテーゼ(命題)

 

が打ち立てられます。

 

 

 

人間の生きる意味は自ら選びとるのだ

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ではそのように人間は自由の刑に処せられている状態、つまり完全に自由で目的のない人間はどうなるのでしょうか?

 

→不安になります。

 

これは、学校や会社という組織に属していることをイメージするとわかりやすいです。学校や会社では、勉強や仕事という目的が存在しますね。ところが、それらに属さないで決まりきった道がなく、自由そのものである私を想像してみると、不安にならないでしょうか?学校や仕事は少なからず私達の人生に目的を与えてくれますが、それがないとただ同じ毎日を過ごすことで不安を感じるでしょう。ちなみに中世ヨーロッパではキリスト教の存在がそれに当たりました。

 

つまり、

 

必然的な存在(組織に所属)→偶然的な存在(自由)

 

になると誰もが不安を感じるということです。

 

ただ、だからといって自身の将来について悲観的になってはいけません。そこでサルトルはこのような状態に有るからこそ我々は、

 

「人間は自らの決断によって人生を作り上げていかなければならない」、

 

「人間の生きる意味は自ら選びとるのだ」

 

 と主張します。

 

またサルトルは実際に、

 

「実存の社会からは逃れられないが、小説や音楽等の創作を通じて必然的な存在にはなれないが創作することによって自分で人生の意味を創っていく」

 

ことで乗り越えるのだと主張します。

 →自分探し(過去)ではなく自分のあり方(未来)を探すことを示唆しているのです。

 

サルトルの自身の生き方>

  • 偶然の恋を楽しんでいた 
  • ノーベル文学賞を辞退
  • 家や財産を所有しない(小さな家、本は他人にあげる)
  • お金に無頓着(亡命者にあげる)

物や制度にとらわれない生き方を貫いたのです。

 

つまり、私達は他人と比較するのではなく、孤立を恐れずに自分の生き方を模索するべきなのです。

 

 

地獄とは他人のことだ

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またサルトルは、誰しもが他人からまなざしを受けることで自分という存在を規定されると主張します。

サルトルはこれを

 

「対人関係とはまなざしの戦いである」

 

と表現します。

 

これはどいういうことかというと、 

  • 自分は世界(世の中)にまなざしを向けて、自分独自の世界を作るor持つ
  • ところが他人が出てくると自分の世界が他人によって盗まれるor規定される
  • つまり、対他存在となってしまう(=眼差しの相克(決闘)
  • そして自分が存在の危機に陥る

 という具合になるのです。

 

*まなざしを向けられること=他有化

自分が自分のものではなく他人のものになってしまうこと

=疎外(マルクスの場合は労働、サルトルの場合はまなざし)

 

*まなざし=自由の受難、人間の条件(避けることができない)

 

 

では自分が存在の危機に陥った際にどうすればいいのか?

 

サルトルは、

 

「さらば、下種どもよ」(なんだこのろくでなしといったニュアンス)

 

といって社会を去れと主張します。

なんとも強引的ですね、笑

これだけ自分らしく生きていきていけということですね。

 

泥棒の例;

自分は泥棒であるとレッテルを貼られる

→規定されることと決意(行動)することとの間に若干のズレがある

=そのズレにこそ自由がある

 

また、サルトルまなざしの問題は抑圧や差別の問題を生むと考えます。

それに対抗するには、まなざしを意識する必要があるのです。

 

例えば、資本主義社会では労働者と資本家の対立は常に存在する。(低賃金・重労働)

→そこで自分が労働者であり搾取されていることを自覚する

それを自分のみならず周囲に自覚させることによって弱者の連帯を成り立たせ社会の進歩を目指す

 

 アンガジュマンせよ

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このようにサルトルは 、まなざしの存在を意識してそれに対抗しなくてはならないと主張します。このことを「アンガジュマン」と表現します。

 

「アンガジュマン」とは、

①自分を拘束すること

②自分を巻き込むこと

③自分を参加させること

 

つまり、サルトルは傍観主義を否定してアンガジュマンを勧めるのです。

→特に言論に関わる人間は社会に対して意見を表明しなくてはならない

=傍観したら他人の意見を認めるということ

→実際にサルトルはあらゆることに意見を述べてそれを世界中が注目していた

 

現代社会でどのように生きていくかという態度表明をしていくことが重要

例;原発問題に対してどのような姿勢を取るか

  

結論: 人間はどんな絶望の社会でも生きていかなくてはならない

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サルトルの最後は希望の哲学を語ります。

 

人間の運命は、人間の手中にある

よって人間はどんな絶望の社会でも生きていかなくてはならない。

つまり、何らかの希望を未来に持たなくては生きていくことができない。

これらを投企と表現しました。 

 

投企;自分を前に投げる

未来に自分の存在を投げ入れて自分の人生を作っていく

例;結婚

 

 

人生は、それに意味を与えようとするれば意味がある。まず行動し、何らかの企ての中に身を投じすべし。しかる後に反省すればすでに賽(さい)は投げられており、人は束縛(アンガジェ)されている『嘔吐』

 

 人間は主体的にみずからを生きる投企なのである実存主義とはなにか』

 

サルトルの姿勢

認識においては悲観的

意思においては楽観的

実存主義は人間中心主義(ヒューマニズム)である

 

 

 

 

 まとめると、

 

実存主義によりこの世に生きる意味や目的などない

→つまり人間は偶然的で自由な存在である

→ところが他人の眼差しによって勝手に生きる目的や意味を規定されかねない

+いくら意味や目的がない人生でも生きいかなければならない

→傍観主義的になんとなく社会で生活をする人が大多数でありそれではいけない

→アンガジュマンをして社会に対して自分の態度を表明すべき

→人間は自らを主体的に生きる投企である

 

ということですね。

 

 哲学者サルトルがこのように言っているのだから、人生の目的なんて考えるだけ時間が無駄だと感じられさせますね。実際に将来何が起こるかなんてわかりませんし。特に人の出会いは大きく人生の意味や目的に影響してくると思うので、そのような不確定要素を今から予測することをできるとは思いません。だから、自分の価値観というものを持って自分らしく生きていきたいと思います。加えて、このブログを通じて多くの人とコミュニティを築いて多くの人に出会いお互いに生き方をみつけていくことができたらいいなと思います!コメントお待ちしております!以上、記念すべき初ブログでした!